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平和

第二次世界大戦・体験文集「平和への祈りをこめて」

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太平洋戦争が終わり、今年で67年を迎えます。この6月、NTT労組神奈川グループ連絡会協は、「平和の祈りをこめて」・「私の戦争体験記」の復刻版(65p)を発行しました。
NTT労組は運動の大きな柱の一つ、反戦平和も、戦争を知らない世代が主流となる現在、自ら「学び、広め、語り継ぐ」活動を展開していますが、今回、旧全電通横浜支部婦人常任委員会の「平和への祈りをこめて」~戦争体験文集~と旧全電通退職者の会・関東地方協の「私の戦争体験記~あの日、あの頃~(神奈川版)をまとめたものです。
昭和20年5月29日、横浜大空襲で横浜が一部の建物を残し、焼け野原となり、神奈川県警調べで、米軍焼夷弾数20万6955発、罹災者数31万1218人と記録されています。私もその時、国民学校1年生で、火の海の中を逃げ、山となった死体の上を越えて、夢中で逃げました。
南方、ニューギニアや満州の戦場で戦った人、少年航空兵だった人、疎開先で食べ物も無く、つらい思いをした人、電話交換作業中、焼夷弾の爆発に合った人、などなど、、戦争の体験文集は、戦争の悲惨さ、残酷さを伝えています。
この「戦争体験文集」が少しでも、戦争を知らない方に知って欲しいと願っています。


">第二次世界大戦体験文集「平和への祈りをこめて」
第二次世界大戦体験文集

 ~「戦争体験文集」~より、抜粋
「 忘れられない横浜大空襲の日(昭和20年5月29日)」
                                    神奈川支部協 井上精司
 人生の半ばを越えて、振り返る記憶の中で、今だに脳裏に鮮明に焼きつき、私にとって忘れることが出来ない一日がある。
 その日は、昭和20年5月29日、太平洋戦争末期の横浜大空襲の日である。
B29爆撃機の大編隊と艦載機は、横浜の中心部を焼夷弾の雨を降らせ、中心部を焼きつくし、罹災31万余、投下した爆弾の量は東京大空襲の時の1783トンの1.5倍にもなる巨大な量であったと記されている。
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 その朝、NHKのラジオから流れた「関東部軍情報!!、関東部軍情報!!、敵艦載機600機は、関東南部に侵入せり!!」のニュースに、何かいつもと違う不安と緊張を覚えた。
 当時、私は七歳で横浜市神奈川区に住み、最後の国民学校一年生になったばかりであった。五年生の姉と三年生の兄たちは戦局が悪くなり日増しに本土へ敵機の襲来や爆撃が激しくなって来たため、三年生以上は学年のクラス毎に山梨県に近い津久井郡の田舎に集団疎開をしていた。残ったのは、父母と二歳の弟と鶴見区で空襲で焼け出されて家に来ていた親戚の叔母と其の息子の中学一年生だけだった。当時、学校は殆んど戦地からの負傷兵を収容するための陸軍病院に早変わりし、私の学校は近くの空き地に仮設した四教室だけだった。
その日は、朝から良く晴れていた。朝、学校へ行ったが、空襲警報が出されたため、直ぐの帰宅するよう言われて家に戻った。間もなく近所で人の声が騒がしくなり、晴れているのに、ザー!!と雨が降るような音に驚き、玄関から空を見上げた時、軒先の青空の中に不気味に数珠つなぎになった敵機が一列に連なって飛んでいた。これは只事でないと直感した。
 突然、家の裏の方で爆弾の炸裂する音が轟いた。その直後、全身火ダルマになった男の人走り寄り、家の玄関前に水をいっぱい張ってあった防火用水の中に全身で飛び込んだ。その人は隣の三浦さんの中学一年生のヒロちゃんで、顔や唇は焼夷弾でやられ、火傷で赤紫色でただれ、皮膚はめくり上がっていた。
「逃げろ!!」と、大きな声が聞こえた。
「精ちゃん!!、こっち!!」,家に来ていた親戚の兄さんがいち早く逃げる方向を示してくれ、その後を夢中で追いかけた。裏へ通じる路地の板塀は爆風で倒れ、通り抜けることは出来なかった。隣の三浦さんの玄関の戸は道路へ吹き飛ばされ、ガラスはメチャメチャ、名からもうもうと煙が噴出し、誰かが倒れていたが、後で、父の話によると、その人は三浦さんのご主人で片足は付け根から吹き飛ばされ、その日に死んだという。
 広い国道は、焼夷弾のガソリンであちこちで燃え上がり、頭から布団をかぶりながら逃げ惑う人であふれていた。家々は至るところで焼けており、一面火の海だった。バスや電車も燃えていた。市電は道路の真中の軌道を外れ、土手の縁まで飛ばされていた。良く魚取で遊んだ川には、沢山の焼死体が浮いていた。火傷で男女の区別の分からず、キューピー人形のようにピンク色にふくれ上がっていた。途中、真っ黒になった焼死体の山を裸足で乗り越え、横浜の港に近い大黒町の方まで逃げた。
 海の上では、木造船が幾隻も燃え上がっていた。幸いにも、まだ、焼けてない造船所に避難させてもらい助かることが出来た。
母はくすぶる造船所の屋根の消火で、煙により目をやられた作業員の痛みを和らげるため、母乳を与え、ここが焼けるようだったら、覚悟して海の中に入ると言っていた。
 午後、家の近くに戻ったが、一面焼け野原で、跡形も無く、あたりはくすぶる煙で、夕方のように暗く、真っ黒な入道雲が湧き上がっていた。吹き飛んだ
屋根のトタンが電線に引っかかり、カラカラとまわり、電柱には、まだ、赤い火が消えずに残っていた。
 仲良しだった三浦さんのヨッちゃンも、本間さんのミッちゃんも、その家族も、そのほか沢山の人達も焼け死んでしまった。
    ・・・・・・・・・・・・・・・
 その五月二九日を今だに忘れることが出来ない。
その時代の政治の歯車のもとで、生きたくても、生きられなかった人達が数多くいたことを忘れてはならない。すべてを否定する戦争の残酷さを思う時、為政者の責任は限りなく重い。のどもと過ぎるれば忘れやすい我々日本人を思う時、今だに、ナチスの戦争責任を糾弾するドイツ国民の姿勢を見習わねばならない。
 その忘れられない五二回目の五月二九日が、又、やって来た。       (1997年12月) 

カット1
泣き叫ぶ親子

カット2
米軍B-29爆撃機


  



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